2008年3月31日月曜日

[news] 地区実態調査の結果報告

実態調査結果がぽつぽつ出てきてましたね。 厳本さんの姿をテレビで拝見することにも、だいぶ慣れました。 厳本さんが役人と並んで記者会見するときの、役人さんたちの微妙な表情が何を語ってるのか気になる。(単に緊張されてるのかもしれんが^^;)

是非とも、ウトロ地区以外の市民にも受け入れられる、メリットのある事業にしなあきませんね。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008032700041&genre=C4&area=K20

ウトロ、高齢化率27・3%
住環境改善協 住民、公営住宅など要望


Kyoto Shimbun 2008年3月27日(木)

京都府宇治市伊勢田町ウトロ地区の土地問題で、国、京都府、宇治市でつくる「住環境改善検討協議会」は26日、京都市内で第2回会合を開いた。高齢化率が3割近いなど、府と市が2月末に実施した行政初の地区実態調査の結果が報告された。また、住民から初めて意見を聞き、今後も意見交換することで一致した。

 調査結果によると、地区の人口は179人、71世帯。65歳以上は49人で、高齢化率は市平均より8・5ポイント高い27・3%だった。また、独居高齢者が15世帯あり、全世帯の21・1%に達した。住居は68戸。下水道はなく、上水道も36戸で未普及で井戸水を使っていた。3分の2の45戸が床下浸水の経験があった。

 会合は非公開で、ウトロ町内会の厳明夫副会長ら役員4人が意見を述べた。▽西半分を含む地区全域の住環境整備▽公営住宅と高齢者福祉施設の建設▽民間事業で歴史記念館を建設する際の場所確保-を要望した。

 会合後、厳副会長は「(地区以外の)市民もメリットがある事業にしてほしいと特に求めた」と述べた。協議会の小田広昭・国土交通省住環境整備室長は独居高齢者の多さを挙げ、「地域でどう見守られながら生活していくか考えなければならない」と高齢者対策を重視する考えを示した。

 小田室長は、地区内に建設業などの事業所が18もあった点を新たな課題に挙げた。今後、事業主の意向なども考慮しつつ対応を考える。今後は、協議会と住民がまちづくりについてそれぞれ検討した内容を突き合わせた上で第2次、第3次の現地調査を重ねる方針。

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http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080327ddlk26040583000c.html

宇治のウトロ地区:住環境整備など要望
行政に住民の思い--改善検討協


毎日新聞 2008年3月27日 地方版

京都市内で26日に開催された「第2回ウトロ地区住環境改善検討協議会」。会合では国土交通省、近畿地方整備局、府、宇治市の委員に加えてウトロ町内会の役員も初めて出席し、住民としての思いを訴えた。会合後に記者会見した国交省の小田広昭・住環境整備室長は「地元の方と今後も議論しあうことを了解しあった。今日の最大の成果だ」と述べた。

 この日公表された実態調査結果によると、地区の居住者は71世帯179人。町内会が3年前に行った調査での65世帯約200人からやや減少し、1世帯平均人数も減っている。また、住居は68、事業所は18(休業中含む)、空き家は46あった。

 会見で小田室長は「高齢者が49人と多い。地域見守りをどうしていくのか考えないと。事業所については今後事業を継続する意向があるかどうかも把握したい」と話し、「高齢者のためのまちづくりのモデルになる可能性がある」とも述べた。

 ウトロ町内会の厳明夫副会長らは、▽ウトロ地区全域の住環境整備▽公営住宅の建設▽高齢者福祉施設建設▽歴史記念館建設スペースの確保--などを要望。厳副会長は「今日、要望したばかりなので具体的な話はこれからだが、率直に話を聞いていただけた」と話した。【三野雅弘】

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http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200803260053.html

宇治・ウトロ地区、半数が井戸水使用 初の公的実態調査


asahi.com 2008年03月26日

戦時中の飛行場建設にかかわった在日韓国・朝鮮人らが住む京都府宇治市のウトロ地区の住環境整備に向け、行政による初めての実態調査の結果が26日、国や同府・市による「ウトロ地区住環境改善検討協議会」で公表された。地区内の約半数の世帯が井戸水を使用し、3分の2の世帯が床下浸水の経験があることなどが明らかになった。

 初の公的調査は2月、宇治市職員らが同地区を戸別訪問して行った。調査報告によると、地区内の71世帯179人のうち、27%が65歳以上の高齢者。上水道の整備は20年前からようやく始まり、今も36戸が井戸水のみを使用。排水設備も不十分なため、45戸が大雨などによる床下浸水を経験していた。

 土地所有権を巡る争いが続いていた同地区では昨年、住民が地権者から土地の半分を買い取ることが決まった。高齢化が進み生活弱者が増えているとして、住民は公営住宅の建設などを求めている。ウトロ町内会はこの日、地区全域で住環境の整備を進めるよう求める要望書を協議会に提出した。

 

2008年3月24日月曜日

[news] 看板作り、宇治市会委現地視察

》「昨年末に取り外した看板は血文字みたいな赤で『強制執行反対』などと書かれ、
》ウトロは怖い所と言う人が多かった。

はっはっは! 血文字!
うむ。ごもっとも。

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http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080323ddlk26040365000c.html

看板作り:地域との共生目指し--ウトロ地区 /京都



土地所有権のないまま多くの在日コリアンが住む宇治市伊勢田町のウトロ地区で、地域との共生の願いを込めた看板作りが進んでいる。韓国政府の支援金などを基に、住民による土地買い取り後の日本の行政による町づくりを見据えた取り組みの一つだ。

 子供からお年寄りまでが仲良く触れ合う様子を描くのは、在日2世の父と3世の母を持つ権〓美(クォンウミ)さん(35)=同市=。絵は趣味といい、住民に聞いた話や写真を参考にイメージを膨らませた。

 地区内の在日高齢者向けデイサービス施設「京都コリアン生活センター エルファ」に勤め始めた4年前から、地区への関心が高まったという。「私は一貫して日本の学校に通ったが、住民たちは自身のルーツを大事にしている。情も厚く興味深い」と語る。

 住民で2世の黄順禮(ファンスンレイ)さん(75)は「年齢や国籍に関係なく仲の良いウトロの雰囲気がにじみ出ている」という。権さんは「昨年末に取り外した看板は血文字みたいな赤で『強制執行反対』などと書かれ、ウトロは怖い所と言う人が多かった。親しまれる町のきっかけになれば」と話していた。【新宮達】

毎日新聞 2008年3月23日

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http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008032100227&genre=A2&area=K20

宇治市会委、ウトロ地区を現地視察
町内会役員の説明聞く



京都府宇治市の市議会予算特別委員会は21日、国、府、市が住環境改善策を協議中の伊勢田町ウトロ地区を現地視察した。住民と地権者による昨年9月の土地買い取り合意後は初めての視察。水はけの悪さなど生活環境の問題点を見て回った。

 委員16人は、ウトロ町内会役員の案内で排水路が未整備のため雨で床下浸水が頻発した場所など5カ所を回った。隣接する城南勤労者福祉会館の屋上からも地区を概観し、「買い取る土地はどのあたりか」と、市職員に質問していた。

 宇治市議会の現地視察は、2001年、05年に次いで3度目。委員らは、戦中の飛行場建設に従事した朝鮮人労働者が暮らした宿舎跡や住民が掘った井戸にも足を運び、町内会役員から歴史的な経過の説明を受けた。

   

2008年3月13日木曜日

[news] 西半分も一体でまちづくりを 宇治市会委

市が「とても絵を示す段階ではない」と答弁してると。
そうか、宇治市が「絵を示す段階」ってのがあるのか!
市がまとめやすいように、誰かが示してあげる必要があるんだろうなぁ、、。

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http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008031200196&genre=A2&area=K00

西半分も一体でまちづくりを
宇治市会委 ウトロ土地問題で


Kyoto Shimbun 2008年3月12日(水)

 京都府宇治市伊勢田町ウトロ地区の土地問題で、住民が買い取れない西半分も含めた地区一体のまちづくりを求める質問、要望が、12日の同市議会予算特別委員会で相次いだ。市は「とても絵を示す段階ではない」と答弁するにとどまった。

 土地問題では、韓国政府の資金援助を得た住民側が、地区東半分約1万500平方メートルを購入することで地権者と合意したが、西半分の買い取りは資金が足りず断念した。委員の1人が「東半分だけではまちづくりにならない」とただした。

 川端修副市長は「全体をどうするかはかなり先の話。東半分も所有権は移転されておらず、(国、京都府と)住環境改善を協議するテーブルについたばかり。とても西半分を含めた絵を示す段階ではない」と時期尚早との見方を示した。

 また、別の委員も「住民にとっては公的住宅の確保が最大の課題。東半分の開発では追いつかない」と西半分を含めたまちづくりの検討を市に求めた。土地問題では、協議のための地区実態調査を府と市が2月末に行っている。

 

2008年3月6日木曜日

[news] 宇治市「地域貢献」金(会長)さん表彰/asahi.com

朝日、2008年3月5日(13版)の大きなウトロ特集にはびびった! 「ウトロ 笑顔咲く春」として、6点ほど大きな写真。ミホちゃん二十歳かい!? 看板廃棄の写真もあって良かった(笑い

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http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000000803030005

宇治市「地域貢献」金さん表彰



asahi.com 2008年03月03日 写真
表彰を受け、客席から壇上を見つめる金教一さん=宇治市文化センターで

 宇治市の市政や地域社会、文化、スポーツで活躍した人らを表彰する式典が1日、同市折居台1丁目の市文化センターであった。戦時中の飛行場建設に携わった在日韓国・朝鮮人らが住む同市ウトロ地区(約65世帯200人)の町内会長を務める金教一さん(68)が地域社会貢献者の一人として表彰を受けた。

 金さんは兵庫県明石市生まれ。6歳のころからウトロ地区に住み、93年から町内会長をしている。地域社会貢献者は、自治会長を計10年以上務めた人が対象で、今回選ばれたのは12人と2団体。市は地域コミュニティーの振興に貢献したと評価した。

 代表者が壇上で賞状を受け取る時、金さんは他の受賞者と客席を立ち、壇上を見つめた。近くで妻や長男、次女、孫らが見守った。金さんは「私個人がもらったものではなく、ウトロ住民全員にもらったという気持ちです。つらい時もあったが、これからのまちづくりのステップにしたい」と話した。

 このほか、市政功労者、スポーツ賞、ジュニア文化賞に計約190人(故人含む)と14団体が表彰された。

   
 

2008年3月1日土曜日

[news] 在日朝鮮人運動史の中のウトロ/朝鮮新報

朝鮮新報で、ウトロに関して熱く記事が展開されています。

控えめに言って、、僕は、「在日朝鮮史運動」の主役が、総連、民団であったとは思っていない歴史認識に立っています。しかし、それでも尚、「確かに、総連はいつでも本気だった」と思い出す記事内容でした。

「(総連の)ウトロ同胞への支援は、日本の植民地政策によって強制連行された同胞たちの「戦後補償」、過去清算の一環であり、」 と、戦争戦後責任の問題としてウトロ問題を位置付けて支援したと述べています。「その通りだよね」 とも思うし、「仰々しい民族右翼的物言いを、生理的に受け付けない層からの溜息が聞こえる」とも思う(僕も同意する)。「ウトロの闘いをして、過去あった戦争を考察することができる良い材料となっているのなら、それは、ウトロに関わる者とすれば喜ばしいことだろう。しかし、実際、ウトロの闘いを様々なグループが、グループ自身の利害に一致するところで”支援”してきたとして、それが、グループの利害に本当に一致することが多かったかと言えば、そうでもなかっただろう」と、、、と言うのが正直思うところ。それは長く付き合ったグループを見ればわかる。漠然とした言い方で申し訳ない。

    ウトロは、その「殆ど」の住民が”強制連行””強制労働”
    からズレるところで、募集に対して労務者が集まり集落を
    作った、、、という背景を控えめに言うてますので、
    上で総連が述べている「強制連行された同胞たち」の
    「同胞たち」とは、直接的にウトロ住民を指しているのではなく、
    もう少し広い「層」に対して述べていると個人的に理解しています^^;

、、。

ウトロの闘いにおいて、左翼であったり、支援する市民グループが「運動をかき混ぜたのでは?」という突っ込みを、様々なウェブで見ることができる(党派が現場で活躍できた状況など、僕は目にしたことがないのだが)。しかし、僕が感じ、思うところは、ウトロの闘いの「思いつきで何でもあり(?)」という横つながりの市民運動の切り口があったがゆえ、様々な人が出たり入ったり関わり続けてこれたのであって、その受け皿の広さ、というか、特定の受け皿じゃ無い感じが、重要じゃなかったの? と強く思っています。ウトロに行けば、大体、他で知り合ってる友人に出会ったりするからなぁ。その「水平な関係のありよう」というのは、総連の「垂直的なありよう」とは相容れない、、、ときもある。

横と縦じゃ、ふつう噛み合わないわけです。しかしながら、「まぁまぁ、ウトロ住民のためという」一致点を共有して、北も南もなく、ウトロの住民にとって、ええ道づくりがこれからもできればいいのにね。と言いたいところです。

蛇足だけど、僕は韓国籍。しかし、民団にも総連にも属していない。多分これからも。僕の家族もそう。

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http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2008/01/0801j0227-00002.htm

在日朝鮮人運動史の中のウトロ


朝鮮新報 - 2008.02.27

既報のように、総連京都府本部では「ウトロ同胞支援募金運動」を大衆的に推し進めている。ウトロ同胞への支援は、日本の植民地政策によって強制連行された同胞たちの「戦後補償」、過去清算の一環であり、同胞の生存権を守るためのたたかいである。「ウトロ問題」が発生した歴史的背景について紹介する。【京都支局】

たたかいの歴史



民族学校として使われていた総連南山城支部

 ウトロの歴史は運動の歴史でもある。それは差別と抑圧に対するたたかいの歴史であるとともに、同胞組織が歩んできた歴史でもある。

 1945年8月15日、解放を迎えたウトロ同胞たちの歓喜の陰で、飛行場建設事業を請け負っていた国策会社幹部らは資料を持ち出し、ウトロから逃げ出した。これにより、同胞たちは何の補償もなしに、「失業者」として放置されたのである。

 解放の喜びに浸るのも束の間、同胞たちは深刻な生活苦に直面する。飛行場建設跡地は米軍により接収され、駐日米軍駐屯地が設置される。同胞たちが暮らしている飯場(現在のウトロ集落)もその接収対象となっていく(米軍が接収した地域は、現在の陸上自衛隊大久保駐屯地)。

 しかしウトロの同胞たちは、どん底の中でも団結してたたかい、そしてたくましく生活の基盤を築いていく。  ウトロ集落には、解放直後にほかの地域でもそうであったように、民族学校(国語講習所)が45年9月に自主的に建てられ運営されていく。ウトロの中で読み書きができる同胞が教師を務めた。「学校」とは名ばかりの施設ではあったが、当時通った同胞たちによると「素晴らしい」学校だったという。

町内会長を20年間務めた金教一さん

 民族学校が運営された建物が現在の総連南山城支部であり、当時の朝聯(在日本朝鮮人聯盟)の事務所でもあった場所である。現在、支部の前には住民たちが「ウトロ広場」と呼ぶ広場があるが、ここは民族学校の運動場であった場所である。

 同胞たちは朝聯を中心に固く団結し、米軍が銃剣を振りかざし、飯場跡からの立退きを武力により威嚇してきてもひるまずにたたかい、生活拠点のすべてであった集落を死守する。当時、米軍は同胞に向かって威嚇のために実弾射撃を行い、数人の同胞たちが被弾、負傷した。

 朝鮮戦争の前年である49年、朝聯組織と民族学校は強制的に解散させられた。民族学校が強制閉鎖された時、教壇を叩きながら泣いていた先生の姿が今も忘れられない、と当時を記憶する同胞は話す。

 しかしウトロ同胞たちは、戦争勃発後も祖国防衛のための闘争を繰り広げる。集落に隣接する米軍駐屯地から朝鮮への軍需物資輸送等がなされていたことから、そのたたかいは熾烈なものであった。そのような中、ウトロは戦争中の52年、二度にわたり警察の強制捜査を受けている。容疑は「スパイ容疑」である。

 55年の総連結成により、運動は新しい段階に進むことになる。朝鮮民主主義人民共和国の国際的権威と同胞愛あふれる海外同胞施策のもと、世界でも類をみない海外同胞運動の歴史を切り開いていくことになる。

 60年代中盤には支部の合併などがなされ、現在の南山城支部となり、活動の拠点をウトロに移すことになった。当時、南山城地域には宇治支部、綴喜支部、相楽支部の3支部があったが、これらが統合されて南山城支部となった。現在の支部事務所は、当時までは伊勢田分会事務所であった。

 南山城地域での在日朝鮮人運動においてウトロは常にその中心であり、また先頭に立っていたといえる。

土地問題の発生



 土地問題が発生したのは、まさに日本がバブルに突入していった時期である。

 87年の転売事件に「ある住民」が関与したこと、また最初に地上げ会社である西日本殖産を作ったのが「ある同胞団体の本部代表」であったということは、言い訳のできない事実であり、まことに遺憾であるとしか表現ができない(転売事件に関与した住民も、「ある同胞団体」の支部役員であった)。

 土地問題・転売事件に「同胞」が関与したことは否定できない事実ではあるが、その最も大きな責任を持ち、決定的な役割を果たしたのは日本行政と日産車体であると言わざるをえない。

 転売と関連して最初に行われた法律的対応は86年12月、当時の地権者であった日産車体から行政(宇治市経由で京都府)へ提出された国土法の届出である。当時、日産車体は届出書類にウトロ地区の現況を「空地・遊休地」として提出し、行政はこれを「認めた」のである(自分たちが飛行場建設に動員した朝鮮人がそこに住んでいることを知っていながらである)。この国土法の届出が受理されたことにより、後の転売は法律的に許可されたことになった。

 西日本殖産が設立されたのは翌年87年4月、移転登記が完了するのは同年6月である(国土法の時効は91年にすでに成立している)。

 こうした事実は、転売事件の「シナリオ」を書いたのが一体、誰であったのかを如実に物語っている。そしてこの事実は、歴史的に繰り返されてきた「日帝」の卑劣な手法そのものである。

 そして忘れてはならないのは、ウトロが本来、軍事飛行場建設に動員された朝鮮人労働者たちの飯場であったという歴史的経緯である。戦争中、ウトロの土地を所有していたのは当然のごとく日本の行政であった。戦後、行政が土地の所有権を「民間会社」に売却したところから「ウトロ問題」は始まっているのである。当時、ウトロの同胞たちには「当然」その事実を知らされることはなかった。

 現在まで日本各地でいわゆる「立退き問題」が提起された同胞集落は数多くあったが、そのいずれもが国有地などの公有地であった。公有地の場合、「立退き問題」は起こっても「訴訟」が起こされた事はなく、すべて安価による払い下げか、移転などにより解決している。

裁判闘争

 87年、転売事件当初の西日本殖産の設立者(=ウトロ地権者)であった、「ある同胞団体の代表」は、西日本殖産の会社ごと第三者へと転売し、その責任を回避する。

 新たに西日本殖産を買い取った地権者は89年、ウトロ住民全世帯を対象に「立退き訴訟」を起こす。司法の場において、歴史問題は取り扱われることすらなかった。単なる民間対民間の所有権訴訟としてのみ取り扱われた。ウトロ住民たちは法廷で、過去の歴史について主張したかったが、そのような場面すら用意されることはなかった。

 ウトロ土地問題が法廷に持ち込まれたことにより、総連組織はウトロ支援活動の基本を「側面支援」に転換することになる。

 土地問題の発生と時を同じくして、日本の市民たちにより支援組織「ウトロを守る会」が結成される。日本人支援者による地道な支援により、ウトロを支える支援の輪は徐々に広がっていき、強制執行を阻止するうえにおいても大きな力となる。また日本人支援組織がウトロ問題を国連(人権委員会)においても訴えたことにより、00年8月には日本政府への勧告へとつながった。

 土地問題が発生してからすでに20年という歳月が流れたが、これは決して短い期間ではない。03年には新たに「ウトロ問題を広げる会」という支援組織も結成された。ウトロの同胞たちを支えてきた日本市民たちの姿を同胞社会は決して忘れてはならない。

 00年末、最高裁の棄却決定によりウトロ同胞たちは全面敗訴となった。

 日本の司法の判決は、「ウトロ住民は不法占拠者である。すみやかに建物を壊し、土地を明け渡せ」というものであった。係争中にもウトロ同胞たちと同胞組織は幾度となく、行政への要望を行ってきた。しかし、行政は「歴史問題は65年の『日韓協定』により完全かつ最終的に終わっている」とし、一切の歴史責任を回避し続けた。

 司法による救済の道が閉ざされたことにより、ウトロ住民たちがウトロの地を守り、生きていくために残された道は、「土地を買い取る」以外にはなくなったのである。

絶望からの再起

 敗訴が確定した直後から、地権者からの「立退き通告書」が数回にわたりウトロ全住民宛に送られてくるようになった。まさに「脅迫状」そのものであった。しかし、どこにも行くあてのない同胞たちが多数いるウトロ住民たちは、「団結」しながら踏ん張り続けた。

 そんな中、大きな転機が05年に訪れる。04年秋、南朝鮮で行われた「居住権学会」に日本人支援者と共に参加し、ウトロ問題を訴えたウトロ同胞たちの姿が南の社会で大きく取り上げられたのである。その背景には、「親日派清算」など過去の「歴史見直し」の機運が高まっていたことがあった。南の活動家たちにより、ウトロ支援の世論と運動が05年春から一気に高まっていく。

 65年の「日韓協定」により「歴史責任」をうやむやにしてしまった南朝鮮当局に対して、その歴史的反省を求めると同時に、ウトロを守るための財政支援を求める世論が民間募金運動の広がりの中で大きく高まっていくことになる。民間NGO団体が行った民間募金には、現在まで約15万人が参加し、その金額は6000万円を超えている。民間募金は現在も続けられている。南の活動家たちと市民たちの運動の高まりにより、昨年末南朝鮮当局はウトロ財政支援を正式に可決した。

 総連組織は04年から町内会役員を兼任しながら、町内会のさまざまな活動を支え、団結を強めるために力を尽くしてきた。また、日本の行政への要望活動や交渉を継続的に展開し、南のNGO活動家たちと共に、この間のウトロの運動を支えてきた。

 ウトロ町内会長を20年間続けてきた金教一さんは、「ウトロが今までがんばってこられたのは、多くの方たちのあたたかい支援があったからだ。この間、絶望的にならざるをえない場面が数え切れないほどあった。今日のような時を迎えることができたのは、本当に奇跡のようなこと。この間にウトロを支援してくださったみなさんへの感謝で胸がいっぱいだ。とくに、総連が本当に厳しい状況の中でもウトロを支援する募金運動を展開してくれたことに対し、ウトロの住民は心からありがたく思っている」と話す。

 町内会長のアボジは、軍事飛行場建設に動員され過酷な労働を強いられた当事者である。

 アボジは解放後まもなく事故により他界し、オモニが女手一つで育ててくれた。1世が歩いてきた苦難に満ちた過去を思いながら金会長は次のように話す。

 「ウトロの歴史はたたかいの歴史であったし、私たちのアボジ、オモニたちの血と涙の歴史だ。その歴史は同胞組織の存在を抜きには語れない。時代が流れ、北南関係も含め私たちを取り巻く政治状況なども大きく変わった。同胞社会全体がそうであるように、ウトロの住民たちの多くが『韓国籍』を取得しているが、朝聯時代から、私たちの心の中心にある民族心と愛国心はまったく変わらない。一昨年に脳梗塞で倒れた金善則顧問をはじめ、総連の活動家たちが半世紀にも渡り、ウトロのため、同胞のために尽力されてきた歴史を私たちは決して忘れない。昨年12月、集会に参加された金顧問がも語っていたが、本当にこれからも一生懸命がんばってこのウトロを守っていく決意だ」

 私たちの歩みは、その一日一日が歴史である。

 「私たち同胞組織の使命は、同胞たちの生命と財産を守ること。そしてそのことは過去の歴史問題と常に直結している。過去の歴史を正すことができなければ、本質的な意味で同胞たちを守ることはできないし、本当の未来は築けない。ウトロ問題の最も重要な本質は歴史問題であり、それは即ち1世たちの『恨』を晴らすことだ。土地問題の解決はその長い道のりの中のひとつ。私たちには命をかけてでも、また代を継いでも、果たすべき使命が残っている」

 倒れた金顧問の後を継いで奔走する、総連支部の現役活動家の言葉である。

[朝鮮新報 2008.2.27]



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(以下、青ひょん)

「ある同胞団体の代表」って言うたって、文脈から「総連サイドではありません」ということを遠まわしに言ってるんだし、この間、メディアで実名で載ってしまって以降は、「まぁ、うち(総連)とは関係ないし言ってもイイだろう」みたいなニュアンスが不可読みできそうで、気分は良くない。

その他、色々と思うところは多々あるんだけれど、偉そうなことを言える仕事をしていないのでやめておく。

それでもなお、総連は、本気だったよな、と強く思うところ。