2008年11月11日火曜日

[まちづくり] 第9回ウトロまちづくり研究会(2)

<レジュメ (1)のつづき

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ウトロの新しいまちづくり基本構想(案)


ウトロまちづくり研究会

2.オモニのうた




住民は団結して裁判闘争を続けましたが、裁判後の対応も考えるようになりました。京都地裁でまだ係争中の1995年ごろに作られたのが、「ウトロ・コリアタウン」プランです。日本行政が住環境整備事業(小集落改良事業を想定)を実施して、地域を全面的にクリアランスする。道路・水道をつくり、改良住宅に住民は移転する。残りの土地は町内会の共有地として残す、あるいは住民に分譲する。日産から企業メセナを加える。こうした計画が書かれていました。まだ市民運動の内部文書という性格でしたが、その後のまちづくり計画の原型となりました。裁判での住民側全面敗訴の見込みが強まると、国際人権法を学んで主張を準備しました。また、ワークショップを重ねるなどして住民の住居への意識を高めて、判決後の事態にそなえました。ウトロに実力で住み続ける一方、「強制立ち退き」の対案として、現実的な解決プランを準備することにしました。1998年に「ウトロまちづくり研究会」(第1次)は、ウトロの全建物の個別調査を実施しました。(このときのデータがいま生きています)。そして、調査結果を踏まえて、日本行政(当時は建設省)が住環境改善事業(例えば、密集住宅地区改良事業を想定)をウトロ地区で実施することは可能であるとの確信を得ました。


2000年7月、住民は「まちづくりプラン」基本方針を確認し、9月町内会は宇治市に(京都府にも)「まちづくり」の要望を提出しました。しかし、予想されていたとはいえ、2000年11月の最高裁上告棄却決定は大きな衝撃でした。住民の居住が「不法占拠」と断定され、(日本の国内法では)司法による解決の道は閉ざされたのです。強制執行が日程にのぼることになりました。しかし、国連(ジュネーブ)での国際法に基づく主張が認められて、2001年8月に国連・社会権規約委員会は日本政府に対し、最終見解(総括所見)を示し、その中でウトロを救済するように勧告を出しました。


これを受けて、2002年2月に「われら住んでたたかう」住民団結集会を行い、「オモニのうた」を参加者の全員でつくりました。


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オモニのうた(集会宣言)

いやや!
どんなことがあっても、私はよそには行かないよ
あの世からお迎えがあるまでは
なんでか わかるかね?
それはね
ここは私の生きてきた「ふるさと」なんだ
みんな 私のこと知っている
私はひとりくらし
この年まで学校には縁がない
具合が悪いときは
近所の人が本当によくしてくれたり
薬も 手にとって
こうして飲むんだよと飲ませてくれる
みんなが気づかってくれる
だから ひとりぼっちじゃない 淋しくない
なんでって?
私は「ウトロのオモニ」だから
2002年2月24日 「われら 住んでたたかうウトロ団結集会参加者一同」



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「強制立ち退き反対!居住の権利を守ろう!代替住宅の建設が保障されない限り住民は闘う、(日本)行政は救済策を行え」と訴え、ウトロ地区の表の道路に向けて大きな看板を掲げたのです。




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以下、青ひょん(引用者)

<「ウトロ・コリアタウン」
おぉ、そんなタイトルついてたっけ。懐かしいが、あの頃と状況も人も変わったよね。
ウトロは交通網、施設網、商圏など立地条件が微妙なんだよね。「だから、逆にイイっ!」って売り込みも難しい^^; 

<「オモニのうた」
「オモニのうた」に繋がっていく、畳込むような流れにびっくり(笑い
住民の思いをある意味代弁したことは理解するし、同時に、まったく状況の知らない人が見るときに理解を得られない様子も理解する。元ネタはアレだそうです。
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「3.ウトロ・コミュニティ」に続く

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/青ひょん