2008年11月6日木曜日

[まちづくり] 第9回ウトロまちづくり研究会(1)

「第9回ウトロまちづくり研究会」を福祉会館で行いました。
後半は、住民の方々を交えて広場で焼肉大会です。

体調が本調子でなかった僕は、「次回はぜひ息子たちを連れてくるんで、」、と口の悪いアジメたち(!)を納得?させなあかんかったり
、、どこそこの○○が死んだ、××がどうなった、、と、暗いニュースもたくさん聞いたり。

時間がどうしようもなく経ってるよねぇ。

10年以上ぶりに見る顔もあり。驚いた。「一緒にバンドしようぜ、って言うてたやん!ハンチョッパリってベタな方向で!!」と僕が昔に言うてた人です(笑

お土産に頂いたお肉は、帰宅後、リンゴがペロリと食べちゃいました。

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日時 11月3日(月)午後1時から4時。
場所 京都府城南勤労者福祉会館2F、視聴覚室
主催 ウトロまちづくり研究会
協力 ウトロ町内会、ウトロを守る会


1、研究会の前回までの経過報告。(守る会)
 ウトロのまちづくりをめぐるその後の動き。(ウトロ町内会)
・土地所有者の債権整理関係
・日本行政の動き
・韓国政府の動き

2、「木造公営住宅」の実施例の画面紹介。
兵庫県宝塚市県営団地(木造3階建、枠組壁工法)

3、「ウトロまちづくりプラン、基本骨子案」の提案と討論。

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<レジュメ

ウトロの新しいまちづくり基本構想(案)


ウトロまちづくり研究会

1.ウトロ集落のルーツ




在日朝鮮人集落・ウトロ地区(京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。約65世帯、200人)のルーツは戦時中の「京都飛行場」建設工事です。1940年、戦争遂行のため計画された京都飛行場建設事業は航空機製造工場やパイロット養成所を含む一大軍需プロジェクトでした。滑走路造成など大規模な土木工事に、安価で強靭な労働力として朝鮮人を収容する「飯場」(労働現場に付随した仮宿舎)が、工場敷地の片隅の低湿地に作られました。いまのウトロ地区です。


1945年、日本の敗戦により軍需工事は中止されました。朝鮮人労働者は日本政府や軍需企業から何の補償もなくその場に放置され、全員が失業者となりました。祖国に帰るに帰れない人々は飯場跡に身を寄せ合い、助け合って生きました。「日雇いの土木作業と食糧の配給があった戦時中より、むしろ失業と食糧難の戦後の方が辛かった。地獄の日々だった」と在日1世はは口を揃えます。1950年ごろの新聞記事によると、当時「伊勢田朝鮮人飯場」とよばれたウトロ地区には60世帯、300人の朝鮮人が住んでいました。戦後、ウトロの土地(約21000平方メートル)の所有権は、国策航空機製造会社の後身・日産車体株式会社(日産自動車系列)に軍需企業の遺産として承継されましたが、土地は清算処分されず放置状態のままでした。1960年代になると、日本各地の朝鮮人集落は都市化の波によって、立ち退きになり多くは消滅していきました。ウトロ地区でも北の共和国に帰還する家族があり、他の地域から流入する世帯もいて再編されました。現在の世帯の半数は戦時中の労働に起因するものの、残りの半数はこの時代に集まってきたものです。


1987年、業績不振にあえぐ日産自動車グループは遊休不動産の処分を行いました。同年、ウトロの土地は3億円で住民の一人・許昌九に売却され、のち転売されました。土地を買い取った不動産会社(有)西日本殖産は全住民に立ち退きを迫り、1989年、京都地裁に「建物収去・土地明渡」訴訟を提起しました。住民は時効による土地所有権の取得を主張しましたが、判決ではすべて退けられました。



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以下は、青ひょんの勝手な独り言

<「安価で強靭な労働力」
誉めてる!?(笑い そう言えばこの言い回しって、誰が最初に使ったんだっけ?

<「全員が失業者となりました。」
これもよく突っ込まれるところ。”戦後”はウトロだけじゃない、みんな失業したんだ!ってね。「あんときはお互い辛かったのぉ」と言うツッコミはネットでは少ない。別に「知らんかったら黙っとけ!」と言いたいわけじゃないけどね。

<「土地は清算処分されず放置状態のまま」
ぬぬ? なんのことだっけ?

<「残りの半数はこの時代に集まってきたものです。」
この辺りが、実は面白い話がてんこもりな部分なんですが、さすがに面白すぎて、僕も伝聞でしか聞いたことがないなぁ。(テキストで読んだことがない。というか誰も書けない)

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「2.オモニのうた」に続く

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